物 語

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  スクロール

前 談


建物 歴史
 
 

 この建物は、旧魚屋萬蔵宅。坂本龍馬と紀州藩が「いろは丸事件」の談判の場として使用した町家です。正確な建造年は不明ですが、使用された材木から見るに1800年頃の建てられたのではないかと言われています。
 歴史の表舞台にこの建物が登場するのは、1867年、前述の「いろは丸事件」の交渉場所となった為です。当時、家主は魚屋萬蔵氏。町役人を務めながら、ここで瀬戸物屋を営んでいました。そんな彼のもとにある日、龍馬と紀州藩の役人が訪れることになります。彼らは近海で船の衝突事故を起こしており、当時、港湾都市として成熟していた鞆の浦に修理のため、寄港しようとしました。しかしその途中、龍馬が乗っていた「いろは丸」は沈没。その目的は修理から賠償責任を巡っての交渉となりました。龍馬が泊まったのは桝屋清右衛門宅(現 MASUYA)、紀州藩が常宿にしていたのは圓福寺、その中間地点にあったのが、ここ萬蔵宅でした。この地理的条件と当主が町役人を務めていたことから交渉場所として選定されたのではないかと言われています。
 ここで2回、対潮楼(福禅寺)で1回の計3回、交渉は行なわれますが、どれも話はまとまりませんでした。当時の日本には、公に認められた海洋法がありませんでした。そこで龍馬は、ヨーロッパの法律を持ち出して、交渉に臨んだそうです。結局、鞆の浦では決着が着かず、龍馬は紀州藩にまで追いかけて決着を着けることになります。約7万両、現在の価値で300億円ほど勝ち取るのですが、龍馬は受け取ることなく、池田屋で暗殺されてしまいます。そのお金の行方は、はっきりとはしていませんが、側近であった岩崎弥太郎が受け取ったとかいないとか・・。ちなみにいろは丸は平成になり、海底から引き上げられるのですが、賠償の対象とした銃火器や金品は見つかりませんでした。

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いろはお話

話・松居 秀子/編・鞆まちづくり工房

まえがき

 「いろは」は、鞆の浦の町並みを残そうとする試みの中で生まれました。古くから海上の要衝として栄え、江戸時代に最盛期を迎えた鞆の浦。戦後も大きな開発の波の影響を受けず、良くも悪くも静かなゆったりとした時間が流れていました。それは古い町並み・風習を残す一方で、高齢・過疎化の問題をもたらしました。
 当時、時代は開発によって地域の発展を目指す流れにあり、鞆の浦にも現代社会に合わせた開発計画が立てられました。都市圏でも交通の要衝でも廃村でもない、古くからの歴史と町並みを残すこの町に、近代的な都市計画がなされたことに私は危機感を覚えました。このままでは鞆の浦の個性が消えてしまうのではないかと。
 こうして、鞆の浦の魅力を再発見しようと歴史調査や空家再生などに試みました。1991年の事です。開発をしなくては過疎化の解決、生活の利便性の向上に繋がらないと多くの指摘を受けましたが、それでも、歴史ある私の故郷。「一度壊してしまったったら、二度と元には戻せない」。開発に頼らない未来の方が、後世により多くの選択肢を残せるんじゃないだろうか。「いま私たちが生きる現代は、先人からの贈り物であると同時に、子孫からの借り物でもある」と思うのです。
 この開発反対運動は20年以上に及び、大林伸彦監督をはじめとする様々な著名人、全国町並み保存連盟やICOMOSなど多くの組織や大学研究室、署名をいただいた15万人以上の方々、そして身近で行動を共にしてくれた多くの仲間が支えてくれました。
 ここでは、「いろはと宮崎駿監督とのエピソード」を中心に書きますが、監督だけではない多くの方のお力添えがあった事に触れておきます。

はじまり

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01.

売り家となった
龍馬ゆかりの町家

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NPOの立ち上げと空家再生活動

 この建物はかつて、坂本龍馬がいろは丸事件の談判の場として使用した町家(旧魚屋萬蔵宅)です。文化文政時代の建築で、築220年を越す歴史的価値のある建物ですが、売り家となり、取り壊しの恐れすらありました。

 私たちがこの建物を購入したのは2004年8月。前年に空家再生を主とする『NPO法人鞆まちづくり工房』を立ち上げた矢先の出来事です。この頃、鞆の浦の古い町並みは、老朽化から取り壊されたり、駐車場になったりと(全国的にも似たような状況で)その様相が変わりつつありました。



『何世代にも渡って積み重ねた複層の価値を、一世代の都合だけで塗り潰してはいけないんではないか。』



そんな思いのもと、古町家を大家さんと共に借り主を探し、みんなで協力して鞆の浦の町並みを修復していきました。その中の一軒がこの魚屋萬蔵宅でした。

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当時の町並み

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購入当時のいろは

02.

甘い見通し現実

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購入できたは良いものの…

 他物件と違い、売家ということが資金難の私たちには大きな障害となっていましたが、取り壊しの話が浮上したことから、あの手この手を尽くしてなんとか購入・・したまでは良かったのですが、中に入ってびっくり。想像以上の劣化に「開いた口が塞がらない」とはこの事でした。この頃はまだ町並み保存の助成金もありません。自力で修復するほかないのですが、もうお金はありません。

 さて、どうするか。

「龍馬ファンは全国で800万人いると聞いて、大キャンペーンを張れば寄付は集まる」と甘い胸算用をして修復費用を募りました。新聞にチラシをはさみ全国の龍馬ファンに投げかけ、高知市役所、龍馬資料館など全国各地を廻りました。


しかし、そんな甘い考えに結果はむざんなものでした。

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いろは内部


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ボロボロの状態でした


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当時の新聞記事

転 機

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03.

修復は一旦諦めて・・

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スタジオジブリの社員旅行

 そんな折です。スタジオジブリの社員旅行を鞆に誘致する話を頂いたのです。修復の事はひとまず後回しにし、旅行の受け入れ態勢を整えるのに尽力しました。
 そして、半年後の2004年10月20日、約200名もの皆様がお越しになられました。子供たちからお年寄りまで鞆のみんなで協力しての大歓迎です。

ドタバタの3日間でしたが、なんとか無事終わり安堵していた2日後、突然、鈴木さん(ジブリ)から電話が入ります。



「NPOに寄付をいたします。それと引き換えといっては何だけど、宮崎を2~3か月預かってもらえないだろうか?」 と。



思わぬ提案に、断る理由はありませんでした。宮崎監督(二馬力)からの寄付。そして、WMF(World Monument Found)からも寄付をいただき、頓挫していた「龍馬ゆかりの町家修復プロジェクト」は遂に動き出したのです。無我夢中、先行き不安の中で得た、みんなの力によるものでした。

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町歩きの様子


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いろいろな催しもしました

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町の人との交流

日 常

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04.

監督の過ごした
鞆の浦

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ゆるやかな時代

 2005年2月はじめ頃、宮崎監督は単身、鞆の浦にやって来られました。ご自身で炊事洗濯をし、鞆の町を毎日散策され、まるで住人のように過ごされていました。目に映る風景を絵手紙にして、奥様に送られていたようです。

過ごされたのは崖の上に建つ明治時代のお屋敷。女の子の座敷童がいると言って、監督は「ただいま」と一声かけて家に帰っておられました。監督の五感に鞆の町はどのように映ったのでしょう。

 この頃の鞆の浦は、道端で将棋を打つおじいちゃんや井戸端会議をするおばあちゃん達が日常の風景にあり、瀬戸内の長閑な暮らし、昭和の世界が色濃く残っていました。
私が飼っていたチビ(犬)も半分は放飼いで、ご近所の皆さんに可愛がって貰っていました。「好きな時に好きな人の所へ行き、それぞれで寛ぐ」そんなチビを監督は追跡して、「世界一幸せな犬だ。」と微笑ましくご覧になっていました。

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自転車に乗るおじいちゃん


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魚を焼くおばあちゃん

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みんなに可愛がられたチビ

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屋根を修理する監督

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洗濯をする監督

修復プロジェクト

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05.

江戸町家の復元

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職人さん達との日々

 話は戻り、修復工事は鞆で最後の棟梁となった水本さんにお願いしました。江戸町家の復元に挑みます。専門家の痕跡調査のもと、ベニヤで囲まれた天井を剥がすと、立派な江戸時代の建築当初の梁が姿を表しました。その出てきた柱や梁をおじちゃん(水本さん)は木槌で叩いていきます。

「コンコン、コンコン」

音の響きで木の中の状態を「使える、使えない」に判定してゆくのだそうです。

「おじちゃんの技を、100年先にも残してあげて。」

と私は職人技に関心し、よくお喋りをしていました。監督はというと、黙って職人の仕事を興味深く熱心に見つめ、しきりに頷いておられました。

 ある日、監督は私とおじちゃんの様子を見ていて「素人でもいいんだ」と呟かれたと思うと、


「松居さん(筆者)、設計図ある?」


と聞いてこられたのです。

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工事開始

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おじちゃんと職人さん達

06.

描かれた
龍馬ゆかりの宿

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御舟宿いろはの誕生

「ありますよ。」と設計図を手渡すと、数日して持ってこられたのが『御舟宿いろは』の原案となる見取り図と想像図のスケッチでした。
思い掛けない贈り物を頂いて、私たちは許す限り(建物本来の歴史を変えることのないように)図面を直していきました。こうして「龍馬ゆかりの町家修復プロジェクト」は、「いろは建築プロジェクト」へと変わっていったのです。

 監督にとって、江戸の町家を宿にするというのは興味深かったようで、複雑な家の形は創造心を掻き立てたようです。特に建築構造について、


「建物は直線直角で出来ていると思っていた。そうでなくてもいいんだ。」


と曲線を使った江戸町家の面白さに関心され「龍馬ならこうするだろう」と大胆なステンドグラスのデザインや、各部屋にはユニークな名前、町家を活かした間取り、そして、それを楽しむ人たちを描かれました。

当店の店名『御舟宿いろは』もこのスケッチに描かれていたものです。

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複雑な構造に頭を悩ませました

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監督は楽しんでおられました

未来へ

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07.

物語を繋ぎ
継ないでいく

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後世へ手渡せるもの

 2007年11月、旧魚屋萬蔵宅『御舟宿いろは』は完成しました。寄付を頂いた皆様への公開期間を経て、2008年6月より営業を開始。
この他20数件の空家再生をもって、町並み保存による町の活性化に励みました。しかし、まだまだ時代は開発の波。思ったような成果は得られませんでした。

監督は、

「大ガッカリでもガッカリしない。橋が出来ようが埋め立てようが結局いちばん繁盛してるのは舟宿いろは館だった・・ということにすればいいのです。松居さんならできますよ。(原文通り)」

とお手紙を。



そして、「崖の上のポニョ」の公開。状況は一変しました。






私の生まれ育った故郷は、走り回って遊んだ、あの頃の面影を残したまま次の世代へと引き渡されようとしています。応援して下さった皆様、NPOや鞆の浦のみんな、おじちゃんや職人さん達、監督、みんなでつくった『いろは』です。




100年先にも残していけますように。

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略歴 評価

1991年

「友光軒」オープン
大正時代に建てられたアールデコの床屋さんが素敵だったので、それを活かしたくて、修繕し、ハヤシライス屋さんを始めました。

 〃

「海の子」設立
NPOの前身となる集まり。鞆の浦の魅力を再発見する個展や歴史、空家調査などを開始しました。この活動は2010年代まで継続的に行ないました。

 〃

「鞆港埋立架橋計画に反対する署名活動」を開始
6千人以上の署名を頂きました。

2001

「WMW(World Monument Watch)」へ申請
【危機に瀕する文化遺産】に選定。

2003

「NPO法人・鞆まちづくり工房」設立
本格的に空家再生事業に取り組み始めました。

2004

「旧 魚屋萬蔵宅」購入
購入費、修復費の資金繰りに奔走しましたが、本当にたくさんの方のお力添えで修復工事に取り掛かりました。

2005

「御舟宿いろは」オープン

 〃

「グッドデザイン賞」受賞
空家再生活動に対し、評価を頂きました。

2007

「鞆港湾埋め立て差し止め訴訟」開始
これまでの仲間に加え、思いある弁護士の皆さんが無償で協力してくれ、始まりました。

 〃

「鞆港埋立架橋計画に反対する署名活動」を再度行なう。
活動が全国へと波及し、15万人以上の署名を頂きました。

2009

「鞆港湾埋め立て差し止め訴訟」決着
“文化的景観は国民共有の財産である”という前例のない判決を頂き、20年以上平行線が続いた開発問題に終止符が打たれました。

 〃

「日本ユネスコ 未来遺産」登録
空家再生や歴史調査など、“歴史・文化的景観を活かしたまちづくり”に対し、評価を頂きました。

2016

「峰山富美賞」受賞
小樽運河の埋め立てを止めた峰山富美さんを想って創られた賞。歴史的価値のある町の開発のあり方の考えや取り組みを評価して頂きました。

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